ことばを巡ることば | 20:34 |
たくさんの言葉が存在している。言葉について考えることは、クラクラするような大変な思いをすることもあることだけれど、途中でやめたり投げ出したりするわけにはいかない作業である。
前回のブログのなかに書いた、「ブログには、ブログにふさわしい言葉遣いがあるはずなのだ。(ちがうかもしれないけれど、仮にそう思っている。)」ということも、そうしたうちのひとつである。
「ブログにふさわしい言葉遣い」とは、「ブログらしい言葉のレベル」で書くこと。
「ブログらしい言葉のレベルで書く」とは、どんなもののことだろうか――
いつかノートに書いた書き物をここに抜粋してみようと思う。ここから言葉についての(ブログの言葉についても)問題意識につながれたらいいなと思う。
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メールには、メールにふさわしい言葉遣いがある。
手紙には、手紙にふさわしい言葉遣いがある。
詩には、詩にふさわしい言葉遣いがある。
メールに書きつける言葉と、手紙に書きつける言葉は、似て非なるもの。
メールに「拝啓」「敬具」と書きつけたら、
違和感が生じた。それは手紙に書きつけるための言葉だったから。
それに、メールに書きつけた手紙をそのまま便箋に書き写してみたら、これにも違和感が生じた。
この違和感は、なんだろうと、Kは思った。Kは、その違和感を和らげようと、手紙のつづきに詩の言葉を書きつけた。
すると、その違和感は、逆に助長され、
とても気障な手紙が仕上がったのである。
その場に「ふさわしい」言葉、その場においてだけ「有効な」言葉、
あるいはその場においてしか有効でない言葉。
言葉の有効性の問題を考えるために、
おおげさに、いくつも例は作られていく。
最初に、小説があった。
小説には、(その)小説にふさわしい言葉遣いがあった。
Kは、小説の言葉を、短歌に使おうとしたけれど、
短歌には、短歌という言語空間で有効になる言葉遣いがすでにあった。
Kは、この世界にいろいろな種類の言葉があることを知るために生まれた。
実際に、新聞記事や雑誌を読んで、それぞれの言語空間においての有意義な言葉があることを知っていった。
Kは、この世界という星の、いろいろな言葉を拾い集めることを自分の使命のようにやがて感じることになる。
あるとき、ファッション誌を開いたKは、ファッション誌にも、そこにしか書かれない言葉遣いがあると、発見した。それもマダム向けのファッション誌と、青少年向けのファッション誌とでは、言葉に使い分けがあるように思った。
広告のキャッチコピーにも、それにおいて有意義になる言葉選びがあることに気づいた。
芝居のせりふにも、(その)芝居においてふさわしい言葉や言い回しがあることに気づいた。
Kは昨晩、能の舞台を観劇したばかりだった。能の舞台においても、その言語空間に特有の言語があることが、早速発見された。
LINEには、LINEにふさわしい言葉遣い(スタンプも含め)があるようだった。
Kは、LINEに小説や新聞記事のような言葉遣いで書きこんだが、いつかと同じように違和感が生じた。
長すぎる文章だったせいか、送った相手からは何も返事がこなかった。ただ、「既読」されたままだった。
Kは、LINEは、ふだんしゃべる言葉を短文で書きつけるのが無難であるらしいと学んだ。
それは、ツイッターも同じであった。
でも、ツイッターには、ツイッターのルールにおいての発信の仕方がある。
そのルールについては、Kはこれから知るだろう。
facebookは、文章の長さでいえばもっと長いものもあるようだった。人と人をつなぐ機能も充実しているようだった。Kは、もっともっと知ることになるだろう。
空は、たくさんの種類の言葉であふれている。都会の空だ。白い雲と肩を並べて、目に見えない無数の言葉の文字がぷかぷかと浮かんでいる。Kは見あげた。この世はたったひとつなのに、いろいろな言語空間が存在し、日常のなかにいくつものそれらがはりめぐらされている。
しかもそれらは日々刻々と多様化していて、ボーダレスに拡張をしつづけている、目には見えないもの。
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追記:
写真は、ウィリアム・サローヤン短編集『心は高原に』です。
今の抜粋とは関係ありません。
唐突でしたが、『心は高原に』は一番最近手に取って読んだ本だったので。。。
サローヤンのこの短編集には、「心は高原に」と「キングズリバーのいかだ」という2編のすてきなショートストーリーがおさめられていました。
「キングズリバーのいかだ」のほうは、主人公の少年の尊敬していた兄さんが、高校を卒業したある日にサンフランシスコへ旅立つことに主人公が心を痛めるというお話です。
「心は高原に」のほうは、主人公の少年の目から描かれるという点で「キングズリバーのいかだ」に似たところがありましたが、こちらのほうの主人公は年齢がもっと幼く、ラッパ吹きのおじいさんと出会うというお話です。
考えてみると、どちらのお話も、誰かとさよならするときの喪失感や、心にぽっかり穴が空いたような気分が織り交ぜられている物語でした。でも、サローヤンの手(言葉)にかかると、不思議と、悲しさだけでなく軽やかな感じも残り、読んでいるときも爽やかな感じの気分でした。