第1話 「バス」 | 09:17 |
1、「バス」
春さきのある日のことです。ダック村には、ほんのりと春の風が吹いていました。
お天気は良く、アヒルの奥さんは、朝、隣町まで買い物に出かけようとしていました。奥さんが隣町までお出かけするのはじつに久しぶりのことです。
指折り数えてみると、前回のお出かけから季節がひと巡りしてしまったようでした。そのことにアヒルの奥さん自身も驚きましたが、奥さんはここのところ、赤ちゃんを産んだばかりで、赤ちゃんにミルクをあげたり世話に忙しかったのです。遠出はほとんどできずにいたのでした。
奥さんは、手押し車の赤ちゃんを連れて、ダック村にひとつしかないバス停のところに立っていました。隣町まではバスに乗って行くつもりです。奥さんの子どもはまだ小さいですから、奥さんも出かける前からいろいろと準備がありました。子どもを手押し車に乗せて行こうか、それとも紐で抱っこして行こうかと迷ったり、それに、手押し車ごとバスに乗れるのだろうかと、悩んだりもしました。
そこで、アヒルの奥さんは、出かける前に、向かいの家の奥さんに聞いてみることにしました。
すると、手押し車でもバスに乗れることがわかりました。
でも、隣の家の奥さんがいうには、手押し車ごとバスに乗る時は、バスが混雑している時間を避けたほうがいいということでした。混雑している場合は、手押し車から赤ちゃんを下ろして抱っこして、手押し車は折りたたんで乗車しなければいけないそうなのです。
赤ちゃんを抱っこした状態で混雑したバスに乗るというのはなかなか大変そうだわと、アヒルの奥さんはいいました。
赤ちゃんが車内で泣き出してしまうことも考えられます。もしも泣き出してしまった場合はなおさら大変そうだわと、奥さんは言いました。
そこで、なるだけバスのお客さんが少なそうな時間帯を選んで乗ることにしました。朝のなかでも遅めの朝に出かけることにしたのです。
バス停には、アヒルの奥さんと赤ちゃんがの手押し車、その後ろに、羽根つき帽子をかぶったおばあさんが並んでいました。今朝の乗客は今のところその3人しかいませんでした。これならと、アヒルの奥さんは思いました。混雑はしていなそうなので、赤ちゃんを手押し車のままバスに乗せてもらうことができそうです。
奥さんは、ひさびさのお出かけにうきうきしているのもありました。
隣町は、ダック村からバスに30分乗れば着くところにありましたが、ダック村とはちがって石造りの高い建物がいくつもあります。
アヒルの奥さんは、百貨店に用事があって行こうとしていました。
隣町には百貨店が二件ありました。時計台や、教会や、噴水のある広場もありました。そればかりでなく、隣町は、そこにいる人々も、いろんな人が歩いていました。港も近いので、ビジネスマンも多く行き交っています。
さてさて、ついにバスがやってきました。奥さんは、バスが止まって扉が開くと手押し車をひょいと持ち上げて乗車しました。
そうするために、奥さんは、あらかじめ両手を自由にしてありました。ハンドバッグは手にさげずに、手押し車の下の段についている荷台に積んでいました。でも、うっかり、運賃を支払うための財布を出す必要があることを忘れていました。財布はハンドバッグにしまいこんだまま…。これではすぐに小銭が取り出せません。
アヒルの奥さんは運転手さんの前でそのことに気づき、足を止めました。奥さんの右手はやや慌ただしく財布の入っているハンドバッグを探しました。アヒルの奥さんは慌てた顔をして、
「あ、お財布…。あ…。」そして「あの、支払い、後でもいいですか?」
仕方なく、そう運転手さんに聞きました。すると、
「どうぞ、ごゆっくり。バスは先に出発しますよ」
と、親切そうに運転手さんはそう答えて、バスを発車させました。
奥さんはすっかり顏を赤らめていました。バスが発車すると、タラップにまだ立ちつくしたまま揺れるベビーカーを手で押さえて最初の赤信号まで来るのを待ちました。
そしてようやくバスが赤信号で止まると、信号が再び緑に変わるのを待つ間に、ハンドバッグから運賃を取り出してし払ったのでした。
奥さんはようやくホッとしたようすでした。
まるでバスに乗ることが初めてでもあるかのように、あたりをきょろきょろ見回しました。
奥さんは、通路の左手の座席はすべて埋まっていて、右手の座席はすべて空いていることを確認しました。
奥さんは、手押し車をどこに停めたらいいものかと思いました。
車内は混雑しているわけではありませんでしたので手押し車はこのままたたまなくても大丈夫そうだと奥さんは思いました。空いている場所に手押し車を止めることにしました。
赤ちゃんは、手押し車の座席に座ったままアヒルの奥さんと同じようにあたりをきょろきょろ見渡しています。
赤ちゃんは、アヒルの奥さんによく似ていました。赤ちゃんはお母さんと目があうと、嬉しそうに手を上げて叩きながら笑いだしました。
アヒルの奥さんは安心した様子で、赤ちゃんの額を撫でました。
赤ちゃんが車内で泣き出したらどうしようと思うのは、取り越し苦労だったのかもしれません。赤ちゃんは、すっかりご機嫌の様子でした。
他の乗客の人たちは、バスのゆったりとした揺れに身を委ねています。アヒルの奥さんも空いている席に腰をかけて、赤ちゃんの様子を見守りながらバスの揺れに身を委ねました。
窓の外には、去年も見られた白くて小さな花が、通り沿いに咲いているのを目にしました。それらを眺めていると、隣町についてからのことにも思いが及びました。百貨店の食料品売り場まで行くのが今日の目的です。そこでお世話になった人へ贈り物にする品を選ぶためです。
きっと今の季節なら桜のお菓子や、春の果物を絞ったフレッシュジュースなどが売られているかしらと奥さんは思いました。その隣では手押し車に乗った赤ちゃんが、向かいの席に座っていた乗客たちに興味を示していました。
向かいの席に座っているお客さんのほうも、赤ちゃんに興味を示しはじめていました。座席には、高齢の女性が3人並んで座っていました。一人がけの席が縦に三つ連なっていて、それぞれの席に同じような年齢の女性が座っていたのです。
3人のうち真ん中の席の女性は、赤ちゃんに微笑みながら手を振りました。
赤ちゃんはそれに気づいてうれしそうに手を叩いて笑いました。
先頭の席の女性も、赤ちゃんに気づいて手を振りました。赤ちゃんは、もう一度うれしそうに手を叩いて笑いました。
先頭の席の女性も真ん中の席の女性も赤ちゃんに向かってもう一度手を振りました。
先頭の席の女性は後ろの席を振り向いて、少し頬を赤くして
「あ、どうも」
と言いました。
「かわいらしいですわねえ」
と、真ん中の席の女性が声をかけました。すると、
「ね、ほんとですねえ」
と、それに先頭の席の女性が合わせました。
アヒルの奥さんも微笑ましい表情でその光景を見守っていました。そうしているうちに、隣町のバス停まで来ていました。
アヒルの奥さんはバスから降りる準備をしているところで乗客の女性たちに会釈しました。赤ちゃんもバイバイとそちらへ手を振るかと思いましたが、ただ笑っているだけで手はこの時は振りませんでした。
アヒルの奥さんが手押し車をひょいと持ち上げてバスから降り、舗道を歩き始めてから、行ってしまったバスに向かって赤ちゃんはバイバイと手を振っていました。